東山荘の歴史

東山荘は、昭和8年、第一銀行頭取であった石井健吾氏の別邸として建築されました。その後、所有者が山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎氏に移り、昭和19年秋、箱根・神仙郷や箱根美術館、熱海・瑞雲郷を造営した岡田茂吉が譲り受けました。
別荘が建てられている熱海市・旧東山(現春日町)の地名を取って、岡田は「東山荘(とうざんそう)」と命名しました。
東山荘には、創建当時のまま現存する本館をはじめ、後に山下氏が政財界の交流の場や国賓の迎賓館として手掛けた別館や茶室、岡田が美による人心教化を目的とした理想郷構想実現に不可欠な、後の箱根美術館、MOA美術館の為に収集した美術品を保管するための蔵、また東山から望む相模湾の海原を活かした借景庭園などがあります。
岡田は「東山荘」と同年春に取得した箱根「神山荘(国登録有形文化財)」をしばらく住まいとして、自身が説く「芸術即生活」を体現し、花鳥風月を愛でつつ、秋から春にかけては「東山荘」で過ごしました。

オーナーの変遷

第一銀行頭取 石井健吾

第一銀行頭取 石井健吾

一代目オーナー:石井健吾

東京生まれ。4歳で父を亡くし、阪本小学校、明治小学校を経て、共立学校(現開成高等学校)に進学後渋沢栄一の書生となる。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。卒業後第一銀行に入行。書記、預金係主任兼貸付係主任、横浜支店長次席を経て、1902年には横浜市長に推挙された市原盛宏の後任として横浜支店長に就任。1910年本店営業部支配人。1918年常務取締役。1926年副頭取。1931年頭取。1935年病気のため頭取を退任した。1938年取締役を退任し相談役に就任。 1945年死去。登録有形文化財の東山壮は別荘として1933年に建設したものである。

山下汽船 山下亀三郎

山下汽船 山下亀三郎

二代目オーナー:山下亀三郎

愛媛県宇和島市生まれ。旧制南予中学校(現: 宇和島東高校)を中退、四国を後にし、京都で小学校の助教員を務める。その後明治法律学校(現: 明治大学)を退学し、富士製紙会社、大倉孫兵衛紙店、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店など職を転々。1894年横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始める。その後、店をたたみ、竹内兄弟商会の石炭部に入社。ここで山下は石炭輸送の海運業と接し1897年個人商店として独立。しかし金策に奔走。当時第一銀行横浜支店長心得の石井健吾に相談、山下の意気を感じた石井は、自ら3万円の借金をし、それを貸した。山下は恩義を終生忘れず、石井が昭和初年に退任するまで第一銀行をメインバンクとした。その後紆余曲折を繰り返しながらも着実に海運業を発展させ、勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。その後は海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際し、1943年(昭和18年)3月には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命、政府関係の委員、行政査察使などを歴任した。

世界救世教教祖 岡田茂吉

世界救世教教祖 岡田茂吉

三代目オーナー:岡田茂吉

東京都台東区橋場で生まれる。浅草尋常高等小学校(現・浅草小学校)に入学。画家を志し、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学、眼の病にて、青年期には商売で成功する。小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻子と次々死別。不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求め、1920年(大正9年)、大本教に入信。
1934年(昭和9年)に大本教を離れ、1935年(昭和10年)1月1日に「大日本観音会」(後の世界救世教)を発会し、地上天国建設を目的として立教。
1944年(昭和19年)、戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、同年熱海の東山荘も購入、熱海瑞雲郷の建設もスタートさせた。1953年(昭和28年)箱根強羅に地上天国の模型「神仙郷」を完成させた。その後岡田茂吉の意をくんで熱海瑞雲郷内にはMOA美術館が建設され、今も尚、岡田茂吉を信奉する人々によって地上天国建設が進められている。

岡田茂吉について更に詳しく